認知症とFail Safe

再びFail Safeとこころの障害について書きます。今回は認知症との関連です。

 基本的には「人間も、何か障害ができた時には、なんらかの装置、システムにおいて、誤操作、誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御すること。またはそうなるような設計手法で信頼性設計のひとつ」。詳しくは前回の強迫性障害とFail Safeを見てください。
よく認知症初期のお年寄りが、「財布を取られた、預金通帳を取られた」と、家族に連れられお見えになります。「嫁がお金を取っていった・・・・」などといったことになり、ご家族内でもめることがしばしばあります。

 精神病理学的に分類し、字面を簡単にみれば、「被害妄想」ということになるのでしょう。「被害妄想」というので、その手の薬物療法をする医者もいます。

 こんな場合、以前に述べた「Geduld, Geduld, immer wieder Geduld: ドイツ語:辛抱、辛抱もう一回辛抱:私が心の医者になって最初に習ったドイツ語:患者さんがどうもわかってくれていないようでも辛抱しなさいという、「こころ医者」への格言」と、唱えながら、もう一度さらに一歩踏み込んで、時間をかけて、このようなお年寄りの話をお聞きすると、「大切なものだから、誰にもわからないように仕舞っておいた、仕舞ったがその場所がわからなくなった」つまり誰にもわからなくなったのであります。確かにご本人は目的を達したのであります。
多くの場合、ご家族にお願いして、家の中を探して頂くと、家の中の普段ご本人が大切なものを仕舞っておく場所から出てきます。つまり他人さんに盗られる事はなくなるというfail safe機能が働いたのです。
 認知症の初期の中心的症状は、「記銘力障害つまり昔のことは覚えているが、新しいことが記憶に残らない」です。

わたしは、これも人間に備わったFail Safeのひとつと考えます。ご家族にもそのように説明して、家の外でなくしてくるよりは、家の中で多くの場合見つかるのですから、Fail Safeのお話をして、その機能が働いているのですよ、と説明しておきます。ご家族もそれなりに納得いただければ、ご本人とトラブルにならず、薬物療法をせずに済むことが多々あります。
 ご高齢の方に薬物療法を行う際には、若い人より副作用が出やすく要注意が必要です。チョッとした機転あるいは知識で家族円満にすごせます。

2.治療について:心の病気・障害の治療の基本的考え方

 こころの病気・障害の治療については、大きな前提を理解しておかないと大きな間違いになる。身体的なレベルの「病気」として同じように、捉えるならばこれは薬物療法が中心である。例えば細菌性肺炎や骨折といった病気ならば、精神療法・カウンセリングを行っても治らない。これは抗生剤あるいはギプスといった薬物療法、物理的な治療が必要であり、どの患者さんにも、どの医者にとっても同じ原因と結果が待っている、因果関係である。つまり 自然科学的な、ものの考え方のみで済む 「1+1=2の世界」 であり、どこで、誰が行っても、同じであるはずである。ただ患者さんの苦しさを、自分に当てはめてみて「つらいだろうなーー」何とかして差し上げたいというこころは必要である。
 一方身体的に問題がなく、「何かいやなこと、悲しいことがあった」に対する反応の場合、自然科学的なものの考え方のみでは説明できない 薬物療法の 「1+1=2の世界」のみでは割り切れない。
 人間の心の反応形式は各人によって異なる。例えば、家族に不幸があったりした場合、「悲しい」「あー、いい人だったのに」と思う人が大半であろうが、中には「ざまあみろ」と思う人、「遺産がたくさんもらえるので喜ぶ」人もいるかもしれない。つまり人間の心の大半の反応形式は、「十人十色」に代表されるように、みな違うのである。
 しかし多くの場合、ある出来事に対して、人が示す反応形式はある程度の予想ができる。こういったことを解き明かすのは、心理学的方法論あるいは人生経験といったものであろう。昔「Menschen Kenner」という言葉を聴いたことがある、「人間通」とでも訳すのであろうか?人のこころのひだを心得た人・・・・・必要である。?

 ある患者さんがお見えになって、われわれこころ医者が、その方の症状をお聞きする。そうして、この部分は自然科学的薬物療法を中心とすべきか?あるいはこの部分は、心理学的に解釈し、精神療法的いわゆるカウンセリングを中心に、お手伝いすべきか?を判断する。

 人生における苦悩、悲しみは薬のみでは解決しないし、またそういう薬物があったとしても、短期的に利用はしても、長い期間にわたって使用すべきでない。
 われわれこころ医者は、その自然科学的方法の部分と心理学方法でお手伝いすべきかの、比率を常に念頭においている。これをしないで薬物療法ばかりで対応しようとするこころ医者は「薬物療法妄想」であり、一方精神療法・カウンセリングのみで、対応しようとするこころ医者も「精神療法・カウンセリング妄想」である。

  そして、もうひとつは環境的な配慮である。疲れきっている人がいるならば、休息が必要である。こころ・身体の治療とともにわれわれは社会的存在であることを忘れることはできない。

2.治療について:心の病気・障害の治療の基本的考え方

こころの病気・障害の治療については、大きな前提を理解しておかないと大きな間違いになる。身体的なレベルの「病気」として同じように、捉えるならばこれは薬物療法が中心である。例えば細菌性肺炎や骨折といった病気ならば、精神療法・カウンセリングを行っても治らない。これは抗生剤あるいはギプスといった薬物療法、物理的な治療が必要であり、どの患者さんにも、どの医者にとっても同じ原因と結果が待っている、因果関係である。つまり 自然科学的な、ものの考え方のみで済む 「1+1=2の世界」であり、どこで、誰が行っても、同じであるはずである。ただ患者さんの苦しさを、自分に当てはめてみて「つらいだろうなーー」何とかして差し上げたいというこころは必要である。
 一方身体的に問題がなく、「何かいやなこと、悲しいことがあった」に対する反応の場合、自然科学的なものの考え方のみでは説明できない 薬物療法の 「1+1=2の世界」のみでは割り切れない

 人間の心の反応形式は各人によって異なる。例えば、家族に不幸があったりした場合、「悲しい」「あー、いい人だったのに」と思う人が大半であろうが、中には「ざまあみろ」と思う人、「遺産がたくさんもらえるので喜ぶ」人もいるかもしれない。つまり人間の心の大半の反応形式は、「十人十色」に代表されるように、みな違うのである。
 しかし多くの場合、ある出来事に対して、人が示す反応形式はある程度の予想ができる。こういったことを解き明かすのは、心理学的方法論あるいは人生経験といったものであろう。昔「Menschen Kenner」という言葉を聴いたことがある、「人間通」とでも訳すのであろうか?人のこころのひだを心得た人・・・・・必要である。?

 ある患者さんがお見えになって、われわれこころ医者が、その方の症状をお聞きする。そうして、この部分は自然科学的薬物療法を中心とすべきか?あるいはこの部分は、心理学的に解釈し、精神療法的いわゆるカウンセリングを中心に、お手伝いすべきか?を判断する。

人生における苦悩、悲しみは薬のみでは解決しないし、またそういう薬物があったとしても、短期的に利用はしても、長い期間にわたって使用すべきでない。
 われわれこころ医者は、その自然科学的方法の部分と心理学方法でお手伝いすべきかの、比率を常に念頭においている。これをしないで薬物療法ばかりで対応しようとするこころ医者は「薬物療法妄想」であり、一方精神療法・カウンセリングのみで、対応しようとするこころ医者も「精神療法・カウンセリング妄想」である。

 そして、もうひとつは環境的な配慮である。疲れきっている人がいるならば、休息が必要である。こころ・身体の治療とともにわれわれは社会的存在であることを忘れることはできない。